空間の感じ方…広さって実際に測った面積と違うのかな??
- 2017/04/30
- 18:34
通常、部屋の広さを検討する際には、「この部屋何平米あるのかな?」と、
真っ先にその部屋の平米数に目が行くと思います。
もしくは何LDKという部屋数かも知れません。
普通の方は結構、この何LDKというのが目安となっている様ですね。
私も知人からマンション買いたいんだけどね~と相談されることが多々あるのですが、
「どれくらいの広さが必要なの?」と聞くと、
「う~ん、最低2LDK」
という受け答えになるケースが大半です。
はて、2LDKとはなんぞや?と…。
リビングダイニング、寝室が2つ、そういう事でしょうね、それは分かります。
ではでは、それぞれの広さはどうなのでしょうか?
例えば、100㎡での2LDKと50平米の2LDKと、単純に各部屋やリビングダイニングの広さが違う、
それは誰しも分かると思います。
では、同じ専有面積であればどうでしょうか?
同じ専有面積なら、変わりようが無いじゃぁないかと思うかもしれません。
ですが、実際には同じ専有面積でも広さの感じ方は全く異なります。
面積は変わりようがありません。それなのに広さが違う?
広さは一緒です。
つまり数字で考えた広さは一緒です。
異なる点は「感じ方」です。
それは開口部の位置であったり、間仕切りの違いであったり、天井の高さであったり、
置いてある家具、照明の違いであったりと変わる要素は沢山あります。
私は子供のころに、何度か引っ越しをしました。
小学生の低学年の頃まで、小さい一戸建てに住んでいました。
2階が寝室でしたが、一人で階段を登ることすら異世界に挑むほどに恐怖に感じることもあり、
いちいち小さい弟の手を引いて、一緒に2階に上がることもありました。
(相当、怖かったのだと思います。)
今思うと、大豪邸ならまだしも、小さい家の2階です。
大した広さでは無かったです(笑)
ですが、とにかく2階という空間に対してとんでも無く異次元の空間をイメージするレベルでした。
大人になってから、その頃に住んでいた街に久しぶりに行った事がありました。
その時に感じたことは、
「道路、狭っ!!小学校小っさ!!」
当時、自分で感じていた空間の広さは何だったのか?
確かに大人になれば体も何も大きくなってますから、そりゃぁ~全て小さく感じるでしょうよ、
と、そんな話をしても誰も何も相手をしてくれないと思います。
ですが、子供であっても感じていた空間は事実なのです。
子供のころは活動範囲が狭く、自分の家と学校と駅や公園と、
限られた範囲しか行き来しなかったと思います。
暗黙の了解でこの道路を渡って向こう側に行ってしまったらダメだと決めていた気がします。
大人で考えると、大した距離ではありません。
子供の頃の活動範囲を今イメージすると、
それは風船の様でした。
風船の表面にペンで地図を書き記していました。
風船はパンパンに膨れ上がっていて、針をチクリとすると「パンっ!!」とはじける状態です。
子供のころは風船の中にこれ以上息を吹き込んだら破裂するのでは無いか、
もしくは肺活量が乏しく、これ以上はと押し戻される様な状況まで息を吹き込んでいました。
ところが、段々と成長するうちに、息は吹き込まれなくなりました。
その結果、徐々に風船はしぼんでいきました。
風船の表面にペンで書かれた地図はどうなったかというと、
地図上にあった学校と我が家の距離はどんどん近くなっていきました。
学校も家も、そこを結ぶ道路も何だかシワシワになって縮んでいきました。
その結果、私が存在した世界は「縮んで」しまいました。
風船は変わりがありません。
中に詰まっていた空気が抜けたのか、張り詰めた風船のゴムが耐えられなかったのか、
細かいことは分かりません。
分かったことはただ一つ、風船がパンパンンに膨れていたときに書いた地図は変わらないのです。
間違いなく子供の時分にマジックインキで書きました。
しかし、大きくなってその風船を見た時には世界は縮んでしまっていました。
これはいったいどういうことなのでしょうか?
いい歳をこいて、いつも考えています。
でも、答えは分かりません。
いや、理屈は分かっているのですよ、
風船が萎めば、その表面に書いてあるものは合わせて収縮してしまうことは。
良く、時間は平等では無いと言われることがあります。
退屈な時に、永遠と思うくらいに時間が長く感じることがります。
昔、学生時代に単純なボタンを押すだけのアルバイトをしたとき、
9時~5時まで、休憩を抜くとわずかに7時間も無いのですが、その感覚たるや永遠に感じました。
でも、とても楽しい時間はあっという間に、残酷なほど僅かに過ぎ去ってしまいます。
空間の広さも一緒なのかなぉと思う事があります。
感じ方ひとつ、もちろん、6帖の和室が100帖の和室に感じることは決してありませんが、
8帖くらいには感じることはあると思います。
それはどうしてなのでしょうね。
感じること、3次元の世界から、もう一つレベルが上がったとしたら、
それぞれの脳内で認識する世界が、それぞれの異なる世界に繋がっているとしたら、
普通に生活をしている中で、4次元、さらに5、6と認識することなくリンクしているのかも知れませんね。

ちょっと前ですが、とっても立派に満開状態の桜の樹を夜に見ました。
何故だか、重力によるものかも知れませんが、
ぶら~んと垂れ下がる花がありました。
まるで地面に向かっているかの様です。
こういった桜の花に、大きなヒントが隠されている気がします。
結局、いつも何を言いたいのか分からない状態で終わります。
真っ先にその部屋の平米数に目が行くと思います。
もしくは何LDKという部屋数かも知れません。
普通の方は結構、この何LDKというのが目安となっている様ですね。
私も知人からマンション買いたいんだけどね~と相談されることが多々あるのですが、
「どれくらいの広さが必要なの?」と聞くと、
「う~ん、最低2LDK」
という受け答えになるケースが大半です。
はて、2LDKとはなんぞや?と…。
リビングダイニング、寝室が2つ、そういう事でしょうね、それは分かります。
ではでは、それぞれの広さはどうなのでしょうか?
例えば、100㎡での2LDKと50平米の2LDKと、単純に各部屋やリビングダイニングの広さが違う、
それは誰しも分かると思います。
では、同じ専有面積であればどうでしょうか?
同じ専有面積なら、変わりようが無いじゃぁないかと思うかもしれません。
ですが、実際には同じ専有面積でも広さの感じ方は全く異なります。
面積は変わりようがありません。それなのに広さが違う?
広さは一緒です。
つまり数字で考えた広さは一緒です。
異なる点は「感じ方」です。
それは開口部の位置であったり、間仕切りの違いであったり、天井の高さであったり、
置いてある家具、照明の違いであったりと変わる要素は沢山あります。
私は子供のころに、何度か引っ越しをしました。
小学生の低学年の頃まで、小さい一戸建てに住んでいました。
2階が寝室でしたが、一人で階段を登ることすら異世界に挑むほどに恐怖に感じることもあり、
いちいち小さい弟の手を引いて、一緒に2階に上がることもありました。
(相当、怖かったのだと思います。)
今思うと、大豪邸ならまだしも、小さい家の2階です。
大した広さでは無かったです(笑)
ですが、とにかく2階という空間に対してとんでも無く異次元の空間をイメージするレベルでした。
大人になってから、その頃に住んでいた街に久しぶりに行った事がありました。
その時に感じたことは、
「道路、狭っ!!小学校小っさ!!」
当時、自分で感じていた空間の広さは何だったのか?
確かに大人になれば体も何も大きくなってますから、そりゃぁ~全て小さく感じるでしょうよ、
と、そんな話をしても誰も何も相手をしてくれないと思います。
ですが、子供であっても感じていた空間は事実なのです。
子供のころは活動範囲が狭く、自分の家と学校と駅や公園と、
限られた範囲しか行き来しなかったと思います。
暗黙の了解でこの道路を渡って向こう側に行ってしまったらダメだと決めていた気がします。
大人で考えると、大した距離ではありません。
子供の頃の活動範囲を今イメージすると、
それは風船の様でした。
風船の表面にペンで地図を書き記していました。
風船はパンパンに膨れ上がっていて、針をチクリとすると「パンっ!!」とはじける状態です。
子供のころは風船の中にこれ以上息を吹き込んだら破裂するのでは無いか、
もしくは肺活量が乏しく、これ以上はと押し戻される様な状況まで息を吹き込んでいました。
ところが、段々と成長するうちに、息は吹き込まれなくなりました。
その結果、徐々に風船はしぼんでいきました。
風船の表面にペンで書かれた地図はどうなったかというと、
地図上にあった学校と我が家の距離はどんどん近くなっていきました。
学校も家も、そこを結ぶ道路も何だかシワシワになって縮んでいきました。
その結果、私が存在した世界は「縮んで」しまいました。
風船は変わりがありません。
中に詰まっていた空気が抜けたのか、張り詰めた風船のゴムが耐えられなかったのか、
細かいことは分かりません。
分かったことはただ一つ、風船がパンパンンに膨れていたときに書いた地図は変わらないのです。
間違いなく子供の時分にマジックインキで書きました。
しかし、大きくなってその風船を見た時には世界は縮んでしまっていました。
これはいったいどういうことなのでしょうか?
いい歳をこいて、いつも考えています。
でも、答えは分かりません。
いや、理屈は分かっているのですよ、
風船が萎めば、その表面に書いてあるものは合わせて収縮してしまうことは。
良く、時間は平等では無いと言われることがあります。
退屈な時に、永遠と思うくらいに時間が長く感じることがります。
昔、学生時代に単純なボタンを押すだけのアルバイトをしたとき、
9時~5時まで、休憩を抜くとわずかに7時間も無いのですが、その感覚たるや永遠に感じました。
でも、とても楽しい時間はあっという間に、残酷なほど僅かに過ぎ去ってしまいます。
空間の広さも一緒なのかなぉと思う事があります。
感じ方ひとつ、もちろん、6帖の和室が100帖の和室に感じることは決してありませんが、
8帖くらいには感じることはあると思います。
それはどうしてなのでしょうね。
感じること、3次元の世界から、もう一つレベルが上がったとしたら、
それぞれの脳内で認識する世界が、それぞれの異なる世界に繋がっているとしたら、
普通に生活をしている中で、4次元、さらに5、6と認識することなくリンクしているのかも知れませんね。

ちょっと前ですが、とっても立派に満開状態の桜の樹を夜に見ました。
何故だか、重力によるものかも知れませんが、
ぶら~んと垂れ下がる花がありました。
まるで地面に向かっているかの様です。
こういった桜の花に、大きなヒントが隠されている気がします。
結局、いつも何を言いたいのか分からない状態で終わります。